カンボジアで出会いたい100人:山中ひとみ

『カンボジアで出会いたい100人〜アジアの小国でのビジネス、文化、生活を知りたいときに出会いたい人々〜』(西村清志郎著,2015年, キョーハンブックス)に掲載されたカンボジア在住日本人としてのインタビュー。


 私は平和なナルシスト。ずっと理想的な世界を信じ「不条理な世の中でも、信念を持ち続ければどうにかなる」と思っていたが、現実は甘くなかった。

 でも、自分の限界を知り、その限界を広げようとする行為が、生きる実感を与えてくれている。

 今は、自分にできる小さなことを、周囲の人達と共に、できる範囲でやろうと思っている。「夢見た人生」ではないけれど、「自分自身の人生を、ここまで生きられたこと」に感謝しながら。

幼少期から大人に

物心ついた頃、日本舞踊をやっている友達がいた。私もやりたいと親に頼み、6年間、踊る歓びを味わった。

 以降、憧れの職業は舞台女優、吟遊詩人、親が望んでいた学校の先生、そして芸術家。漠然とそんな夢を見ながら、高校時代、拒食症になった。

 生活に不自由しないサラリーマン家庭で大事に育てられたが、両親の希望に従えない自分への不安感を感じていたのだと思う。

 大学では哲学を専攻した。でも、それを研究したい訳でも、社会に出てやりたいことがある訳でもなかった。アルチュール・ランボーや中原中也のように、汚れなく生きたかった。

 そんな時、ほのかに好きだった人が若くして自殺した。それまでどう生きれば良いのか分からなかったが、その時自分には「生か自殺か」の2つしか選択肢がない事に気付き、生きてゆく覚悟をした。

 大学を卒業し福祉施設で働き出した。旧い家風で育った私は、自分の欲望を追及してはいけないと信じており、お金が欲しいという欲望の為に福祉という聖職を選ぶ事で、罪悪感が薄れるような気がしたからだった(註1)。

 働いている内に気付いた事があった。知的障がいの入所者は、不満や不条理感が強かった。でも、そんな不満はいっとき忘れる事があり、「今日のご飯は何だろう?」といった、小さな幸せを感じて生きていた。どんな状況に置かれても、些細な事に喜びを感じて人間は生きられるのだ、とエールをもらった。

 2年間務めた職を辞め、沖縄へと自分探しの旅に出た。大自然に包まれて三線を習った。そこにはアジアを旅した人も多く、私もアジア大陸の風を知ろうと、海外に旅に出た。タイ、インドネシア、マレーシア、インドと、自分の魂の居場所を探した。東南アジアの芸能に触れ、子供の頃、踊りを習っていた事を思い出した。何も我儘を言わない「いい子」だった私が、唯一親に頼んだこと、――「踊り」が私は本当に好きだったのだ、と思い出した。

 そして1993年、タイ王立チェンマイ音楽舞踊学校で、タイ古典舞踊の聴講生として学び始めた。

タイ古典舞踊からクメール古典舞踊に

 1996年、タイ古典舞踊を学んで3年経った時、父が亡くなった。父には勘当されていたが、帰国した(註2)。そして、定職には就かず、急いで結婚もせず、舞踊を自分のライフワークとしてやっていく事に決めた(註3)。

 また、専門をカンボジア古典舞踊へと切り替えた。自分の特性(才能や体型など天与の物)と、置かれた状況(競合他者の不在)、自分が探していた芸術性とカンボジア古典舞踊の一致(宗教や精神世界と繋がる奉納舞踊でありながら、古典として様式が確立されている点)等を考えた上での選択であった。

 1997年、カンボジア芸術大学付属芸術学校古典舞踊科に入学した。日本には定期的に戻り、貯蓄と奨学金、夏休みのアルバイトで計5年間学んだ。その留学中、母も亡くなり自分一人となった。

 2003年に日本人として初めて同校を卒業。記念公演を行い、日本に帰国した。時々依頼される機会で踊りながら個人的に教えていたが、2006年に教室を開いた。

 2013年、カンボジアから帰国し10年が経った。現在、博物館や大使館、地方自治体主催のイベント等に出演しながら、芸術性を追求する自主公演も開催。教室の生徒は20人程。毎年、1年に1か月はカンボジアを訪れ、恩師から学び続けている。踊りが自己流にならないように注意し、新しい演目も増やしている。

 将来的には、教室を法人格に切り替えるつもり。しっかりとした組織にし、私の引退後も次の後継者がやっていける団体にしたい。個人より法人の方が、公の助成金や企業からの協賛金を受け易くなる、という事もある。

 日本人である私、お金のない私にできる事を、ゆっくりとやっていく。等身大の自分にできる事をコツコツと。

運営の不安

 カンボジア伝統舞踊は日本で注目されている訳でも、沢山の生徒が集まる訳でもないので、多くの収入がある訳ではない。率直に言って、親の遺産があったからこそ続けられている。親不孝な娘ではあったが、両親は一生懸命、家族の為にお金を貯めていてくれた。本当に有難かった(註4)。

 今後、経済が悪くなると、人々が民族舞踊に関心を向ける余裕がなくなるのではないか、と少し心配している。でも一番の脅威は、自分自身。

 若い踊り手として通用していた自分から、弟子を率いる中年の舞踊家へと、この10年間アイデンティティを作り直してきた。これからは、監督として団体を率いる老年「大家」へと変貌を遂げ、確固たる団体運営や舞台制作を行い、社会に存在感をアピールし、収入を得ていく事が必要である。

 元々、踊りを聖なるものに奉納したいと望んでいた私に、そんな大それた事ができるのか、正直、現在不安である(註5)。

今後の挑戦

 日本でカンボジア舞踊とその文化を伝えながら、現代人の心に響く舞踊作品を作り上演したいと願っています。それは私の小さな自己実現ではありますが、それがカンボジアの人々にとっても、何かしらのプラスになれば、とても嬉しいです。

 人生やこの世は理不尽な事だらけですが、それでも「良い所もあったな、精一杯できる事を努力したな」と、自分が思えるようにし、他の方々とその気持ちを分け合いたく思います。

 「もう辞めたい」と思う時、既に人生後半の私に初恋(?)の人が今なお、「芸術への愛を諦めて良いの?」と、問い続けている気がします。

 二十歳の頃と違うのは、苦闘しながら歩んできた道のりと、自分とは違う世界を持つ小さな他者の輪が、今の私にある事かもしれません。


註1、平成の若い人々には理解し辛いかもしれないが、半世紀前のある種の日本女性は「お手本は美智子様」と躾けられ、我欲を持つ事は「はしたない」とたしなめられた。私の若い頃の苦しみは、日本と西洋の価値観の葛藤、精神と肉体の葛藤、持てる者と持たざる者への眼差しの葛藤、世間的な優劣の葛藤だけでなく、女性の社会的立場(ジェンダー)の葛藤もあったのだと思う。またそれとは別に、男性もお金に関して言の葉にのせない風潮が、その時代にはあったのだ。

註2、亡父の名誉の為に付け加えると、「箱入り娘」だった私が、仕事も中途半端、結婚もせず、家を出て行った事にショックを受けたのだと思う。再び、平成の若い人々には不思議かと思うが、まこと、昭和の父とは、向田邦子の「父の詫び状」のような父親であった。

註3、今の一般日本女性の置かれている状況を考えると、当時のバブル時代の空気と、高度経済成長期に生きた親の経済力に感謝するばかり。

註4、戦後、日本社会全体の底上げがあったからこそ、サラリーマン家庭の娘も芸術家の末席に連なれたのだ、と今になって思う。本来のハイアート継承者は、相応の経済資本、文化資本が必要だったのだ、とやってみて実感している。ただ、カンボジアは大国ではないので民族舞踊としてはマイナーで、そこが私の身の丈に合っていたのかも。

註5、私の人生は多分、時代のお蔭で底上げされた庶民の娘が、ちょっと豊かな自己実現と生活水準を望み、「女の自立」を七転八倒しながら延々と努力し続けている物語。辛いけれど、ほんの少し前までは許されなかった贅沢なのだから、最後まで頑張ろう、と思う。

基本情報(掲載時のもの)

座右の銘: 人生は、どんな状況でも、意味がある――ヴィクトール・フランクル

趣味: 遺跡・古い寺院や教会・美術館巡り。古楽鑑賞。スポーツTV観戦。海や温泉、お花見などの季節の行事。

カンボジア歴:1996年訪問。1997年10月~98年6月、99年11月~2003年8月在住。現在は毎年1回1ヶ月間滞在する。