カンボジア古典舞踊の魅力

以下は、『世界のダンス 第二巻』に寄稿した原稿です。山中執筆文を、当ウェブサイトにも掲載いたします。

1. カンボジア古典舞踊の歴史

 カンボジア古典舞踊を一言で説明すると「アンコール・ワットに伝えられる踊り」ということになる。王立プノンペン芸術大学芸能学部長(二〇〇三年時)のプルン・チアン教授は「カンボジアのすべての芸能のもとは宗教だ」と言う。そして、その宗教は、日本と同じく緩やかで複合的な要素を持つものであり、インドから伝わってきたヒンドゥー教、仏教、そしてアニミズムの信仰と慣習が結合したものである。(次頁写真、出演は山中ひとみ、バイヨン寺院を模した劇場にて)

 アンコール王朝時代(九世紀~一五世紀前半)、踊り手はすべて女性で「プロチャム・プラサート(寺院専従の者)」あるいは「テーヴェア・ティッサイ(天人のための女性労働者)」と呼ばれ、神と人間との間を媒介する役割を担っていた。十四世紀アンコール王朝がタイのアユタヤ王朝に敗れたことにより、この古典舞踊の黄金期は終わり、舞踊教師と踊り手たちはタイに連れ去られたと碑文にある。

 その衰退してしまった文化が再興されたのは十九世紀、アンドゥオン王の時代である。幼少時タイで学んだ王は、タイの宮廷文化とカンボジアの宮廷で伝えられていたものを合わせ、カンボジアの古典文化を再興した。十九―二十世紀前半、踊り手は宮殿の中に住み、王族の儀式のために踊り、フランス植民地支配下では外交儀礼でも踊られていた。

 第二次世界大戦後、故シアヌーク殿下がカンボジアを独立させた時代には、殿下の母君コサマック王妃が古典舞踊を興隆させた。宮廷舞踊の民主化が図られ、舞踊教師と踊り手は宮殿の外に住み、結婚も許され、王宮の中の芸術学校に毎日通うようになった。踊りの機会はやはり王族の儀式、外交儀礼であった。

 その後一九七五年から四年間続いたポル・ポト政権下で舞踊教師や踊り手は王室に関わるものとしてその九割が殺されてしまったが、政権崩壊後の一九八〇年、生き残った舞踊関係者が芸術学校と政府の芸能局で舞踊復興に取り組み始める。内戦後の混乱期、衣食住にもこと欠く中、舞踊を復興させようとした彼らの情熱は民族としてのアイデンティティを賭けたものだった。この社会主義時代、舞踊団は国立となり、歌詞の言葉遣いや内容も政治の影響を受けたが、一九九一年の和平協定以降、国が立憲君主制となるに伴い、古典舞踊も再び王制と関わりを持つようになった。現在も依然として宮廷舞踊、奉納舞踊の性格が色濃く残っている。

2. 踊りが表わす壮大な宇宙観

 代々の舞踊の師匠の魂や神々へ礼を捧げるソンペア・クルーという儀式が、公演前や毎週木曜日に必ず行われる。冠や仮面には魂が宿ると信じられ、線香、ろうそく、ジャスミンの花、供物が並ぶ。この敬意は良いものだけでなく悪いものにも捧げられ、それは善と悪、知性と荒ぶる力が永遠の闘いを繰り広げるという、彼らの宇宙観に基づいているようだ。そして舞台上の物語は必ずハッピーエンドで終わらなければならず、それは善が悪に打ち勝つよう願いを託しているからだと考えられる。

 舞踊の主要なモティーフは、リアムケー(カンボジア版ラーマーヤナ物語)や天女アプサラ・男女の神々である。高貴な主人公、柔和な女主人公、夜叉、聖なる猿の4つの役があり、以前はすべて女性により演じられていたが、現在は猿と劇中の仙人(宇宙神)の役は男性により演じられている。

 衣装、冠、装身具も彼らの宇宙観、即ち、宇宙の中心に神々の住む須弥山(しゅみせん、メール山)があり、その周りに我々人間の住む大地、そしてその果てを大海が取り囲むという神話や、聖なるものをお守りする大蛇ナーガを表現している。音楽は「ピン・ピアット」と呼ばれる古い形式の合奏で木琴、ゴング、笛、太鼓等の七つの楽器から成り、これに三人の唄い手がつく。(次頁写真、出演は山中ひとみ、カンボジア王立音楽舞踊団、撮影はDena Langlois)

 身体の動きの特徴は①ソンコット・クロリアン(腰に力を入れる、押し付ける)、②手足の指先を反らし、手首や足首に力を込める、③全てを回転させ、肩甲骨下の深層筋とつなげる、ということである。

 まず手指では、「種を植える→芽→葉→つぼみ→花→果実が弾けて落ちる」という植物の命の循環を表現する。踊り手は手そのものが生きているように「生命ある手」を持たなければならない。指が反り返るのは大蛇ナーガの尾を表していると言われる。

 又、歩き方は大蛇ナーガが這う様子を模し、「ひそやかに息をするように」動いてゆく。蛇はカンボジアの文化と深い関わりがあり、前述のチアン教授は、カンボジアの建国神話にも蛇姫ナーギーが登場することを取り上げ、「我々は蛇人間だ」と語る。そして、片足で立ったり回ったりするのは、天界で天男天女が飛翔している様を表している。

 姿勢はお尻を「赤アリのように」後方に突き上げ、ひざを曲げて重心を下げながら、時々上方へ伸びる。手足でつくる空間(例えば歩幅)が小さく体重は常に前脚にかかる。この特異な姿勢と、力のかけ方・抜き方(チアン教授はそれを「カンボジア舞踊は密度が高い」と表現する)が、ゆっくりしたリズムや舞台上の性別の在り方と共に、踊り手の周りにあたかも日常とはかけ離れた異次元の時空間を現出させているように、私には思える。

3. カンボジア舞踊の新たな試練

 今、カンボジア古典舞踊は、再び転機を迎えているように思う。それは民族のアイデンティティの証として皆が必死に力を合わせてこの芸能を復興させ、最早三十年たったからであろう。グローバリゼーションと共に現代商業文化が隆盛し、首都プノンペンの人々が好むのは古典ではなく、現代の国際的な大衆文化のようにも見える。また、芸術学校が郊外に移転したため生徒・先生共に通学しにくくなり、関係者の結束も崩れがちな上、世代交代も進んでいる。

 今後は、新興国として豊かになりつつあるカンボジアで関係者が満足して生活してゆける経済的基盤の確立と共に、舞踊界の運営の民主化、政治の文化政策の充実(例えば卒業生の就職、国立劇場の設置、国民に伝統文化を普及する為の公演機会の増設など)と予算の増額が望まれる。だが、もちろんどこでも政治の問題は難しく、関係者自身による改革は元々かなり封建的な世界であったため容易ではない。そして、時代の流れで舞台の華やかさは追及するものの研究・保存活動が十分ではないので、ポル・ポト時代以前の古いものが忘れられ変わってきており、前途には課題も多いように私には感じられる。

 しかし一方で、カンボジア人はアンコール・ワットを始めとする自国文化に対する誇りは大変高いので、伝統芸能がそう簡単に衰退することはないだろう。二〇〇三年に古典舞踊がユネスコ「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言された時は、一般の人々もとても喜んでいた。また近年、民間の舞踊団体が様々な新しい取り組みをしていることも、大変良い潮流であろう。

 人間の根源的な宗教心を洗練の極みまで高めたカンボジア古典舞踊が、厳しい現実の中でも新たな展開を見せ隆盛し、人々に「生きる力」を与え続けることを願ってやまない。

(山中ひとみ)

(次写真、出演はKimhan Meas、山中ひとみ、撮影はColin Grafton)