カンボジア舞踊家として、「自分」を生きる   

私は、幼少期から感じていた「内面の乾き」をずっと辿っていく内に、カンボジア古典舞踊に出会った。今思えば、日本は敗戦時に大きく価値観が転換し経済状況が変化し、亡き父母と私の間には大きなギャップがあった。思春期には、日本と西洋の価値観、精神と肉体、持てる者と持たざる者への眼差し、能力的な優劣、社会的性差(ジェンダー)の葛藤を感じていた。

又、父の転勤に伴い、私には「故郷」と呼べる場所がなかった。東京で生まれ仙台に移り、受験勉強、摂食障害を経験し、大学で東京に戻った頃はバブル景気前夜だったが、私には「人はどこから来てどこへ行くのか。私は何に拠って立つのか」という、深い孤独感、喪失感があった。

そんな気持ちから哲学を専攻したが、福祉職を経て沖縄で伝統芸能に出会い、東南アジアの舞踊学校に留学し、以後この道を歩んでいる。

今は挫折も知ったが、自分の限界を広げる努力が、生きる実感を与えてくれている。改めて、バブル時代の空気と、高度経済成長期に生きた亡き親の経済力があったからこそ、サラリーマン家庭の娘もここまで来れたのだと、感謝している。

芸術は実用性を測りがたく、権力や権威、経済力の支えを必要とする。それでも、人間の品位に関わる物として、これからも芸術を愛し続けたい。今後は自分の為だけでなく、激動の時代を生きてらした先人の想いも載せ、又、生き辛い次世代への励ましともなるように。そして、カンボジアの人達とも共感し合えるように。

総会で踊らせて頂いた後、仙台で踊る機会を得た。15歳の私が、観客の中に居たような気がした。40年後の「夢の自分」ではないけれど、彼女は「こんな未来なら、生きていってもいいよ」と言ってくれただろうか・・?

辛かった頃、温かく見守って下さった先生方と同窓の皆様にお礼をお伝えし、「15歳の自分」と和解できた今年に、心より感謝したい。

高32回生 山中仁美